ワールドカップ日本代表選手としてかなり話題になっていた堂安律選手。
彼は幼い頃から実力を認められ高校2年生の時にはガンバ大阪クラブ史上最年少でのJリーグ出場を果たした選手でもあり、持ち前のメンタルの強さも注目されており、2022年のワールドカップでは数々の名言を残しました。
現在はブンデスリーガ・SCフライブルクに所属し、世界でもその実力が高く評価されています。
そこでこの記事では
・堂安律wiki風プロフィール
・堂安律がサッカーを始めたきっかけ
・堂安律の「尼崎市立浦風小学校」時代
・堂安律の「尼崎市立小田南中学校」時代
・堂安律の「追出門学院高等→向陽台高校」時代
・堂安律の経歴と移籍歴
・2017年海外への期限付き移籍を発表
・2018年日本代表に初召集される
・堂安律の名言!ワールドカップで話題に
堂安律選手の気になる生い立ちや学歴、経歴について調べていきます。
堂安律wiki風プロフィール

プロフィール
●名前:堂安 律(どうあん りつ)
●生年月日:1998年6月16日(2023年6月現在 25歳)
●出身地:兵庫県尼崎市
●最終学歴:向陽台高等学校
●家族:父、母、長男(堂安麿、会社員)、次男(堂安憂、元Jリーガー)
●身長:172cm
●体重:70kg
●ポジション:MF(ミッドフィ-ルダー)
●利き足:左
●2018年キリンチャレンジカップ日本代表に初選抜
●現在の所属FC:ドイツ・ブンデスリーガ・SCフライブルク
堂安律の生い立ちやサッカーを始めたきっかけ
堂安選手は幼少期から兄の影響でサッカーを始めています。
堂安選手がサッカーを始めたのは、3歳のころです。
8歳年上の麿(まろ)さん、3歳年上の憂(ゆう)さんの、2人の兄の影響を受けて、兄が通っていた浦風FCジュニアについて行ったのが始まりでした。

引用:Instagram
母親と一緒にいつも兄の練習について行っては、練習場の隅でボールを蹴って遊んでいました。
当時浦風FCで指導していた田村コーチは「当時から本当にうまかった。」と話しています。
「当時から本当に上手かったですよ。インサイドキックを綺麗に蹴れていましたから。たいていの子は足を開けなくてできないんですけどね。そう考えると当時から何か違う感じはありましたね。」
引用:サッカーダイジェストweb
堂安選手は3歳にしてすでにサッカーの才能があったのですね。
堂安律の学歴について!小学生・中学生・高校生時代のエピソードも
堂安選手は小学生のころから強豪チームに所属し、活躍していました。
どんな学歴があったのか、年代別にエピソードも加えてまとめていきます。
出身小学校は「尼崎市立浦風小学校」負けん気な性格はこの頃から
堂安選手が通った小学校は、尼崎市立浦風小学校です。

引用:尼崎市立浦風小学校
所在地:兵庫県尼崎市杭瀬南新町4丁目1-34
児童数:117名(令和5年5月)
各学年1クラスの、小規模な小学校です。
尼崎市立浦風小学校は、令和4年度よりコミュニティ・スクール(学校運営協議会)を取り入れています。
コミュニティ・スクール(学校運営協議会)とは、地域住民の意見を学校の運営方針に反映させる仕組みをもつ学校のこと。
教育方針などを地域で共有し、どんな子どもを育てていきたいかなどを話し合います。

地域と学校が連携し、子どもの成長や教育を見守っていく取組みなんだね。
堂安選手は小学校入学と同時に、浦風FCに加入します。
この頃からすっかりサッカー漬けの日々で、浦風FCの練習時間以外でも、兄2人と近所の小田南公園に行ってはボールを蹴っていました。
堂安選手の負けん気の強さは、この頃からあったのですね。
出身中学校は「尼崎市立小田南中学校」
堂安選手の出身中学校は、尼崎市立小田南中学校です。


引用:尼崎市立小田南中学校
2018年に統合され、現在は尼崎市立小田中学校となっています。
所在地:尼崎市長洲中通1-10-1
生徒数:合計583名(令和4年5月1日現在)
沿革:2016年に尼崎市立若草中学校と統合し廃校に。
現在は尼崎市立小田中学校として新設されている。



堂安選手が通っていた小田南中学校は、現在は統合されてなくなっているんだね。
校舎は2018年に旧尼崎市立小田南中学校の跡地に移転されました。
堂安選手は小田南中学校に進学すると同時に、ガンバ大阪ジュニアユースに入団しました。
ガンバ大阪ジュニアユースは、ガンバ大阪アカデミーによる人材育成コースの一つ。
という3つのカテゴリーで構成されています。
各カテゴリーの年代ごとに合わせた指導が行われ、アカデミー生はトップ加入(Jリーガー)を夢見て、日々トレーニングに励んでいます。
2023年現在、ガンバ大阪のトップチームには7名のアカデミー出身選手が在籍しています。
GK 1 東口 順昭
FW 7 宇佐美 貴史
FW8 食野 亮太郎
MF 10 倉田 秋
MF21 塚元 大
MF41中村 仁郎
GK 99 谷 晃生
ジュニアユースでは鴨川幸司氏の指導を受け、精神的にも肉体的にも成長を重ねます。
メキメキと実力を伸ばし、中学2年生の時にはU-15の全国大会で日本史上初の3冠を達成しました。
出身高校は「通信の向陽台高校」サッカーを本気でやるために転校
堂安選手の出身高校は、向陽台高等学校です。


引用:向陽台高等学校
向陽台高等学校
所在地:大阪府茨木市宿久庄七丁目20番1号
特徴:広域通信制の単位制高等学校
偏差値:43
登校の目安:総合コース 週2日~
進学コース 週4,5日~
オンライン学習コース 長期休業中に集中スクーリング
通信制の単位制高校のため、自分で科目やコースを選べます。
また向陽台高校は数多くの有名人が卒業しています。
向陽台高校の卒業生
・稲本潤一(サッカー選手/元日本代表)
・新井場徹(サッカー選手/元日本代表)
・家長昭博(サッカー選手/元日本代表)
・宇佐美貴史(サッカー選手/元日本代表)
・井手口陽介(サッカー選手/元日本代表)
・羽畑公貴(サッカー選手)
・木村敦志(サッカー選手)
・寺田紳一(サッカー選手)
・三木良太(サッカー選手)
・不田涼子(プロテニス選手)
・山本良介(トライアスリート)
・春やすこ(タレント)
・三浦璃来(フィギュアスケート選手)



サッカー選手がとても多いですね!
実は向陽台高校は、ガンバ大阪と提携しています。
そのためサッカー選手がこれほど多いんですね。
堂安選手は、向陽台高等学校の前に追出門(おうてもん)学院高等学校に入学しています。


引用:追手門学院高等学校
追出門(おうてもん)学院高等学校
所在地:大阪府茨木市太田東芝町1-1
特徴:私立の併設型中高一貫校
姉妹校:追手門学院大手前中学校・高校
偏差値:58~68
コース:特選SS 難関国公立大学対応
Ⅰ類 国公立大学対応
Ⅱ類 難関私立大学・国公立大学対応
Ⅱ類スポーツコース 質の高い練習環境で実力ある選手を育成
創造コース 国公立及び難関私立大学の推薦入試に対応、海外進学にも対応
堂安さんはおそらくⅡ類スポーツコースに所属していたと予想できます。
しかし高校入学時からガンバ大阪ユースで忙しく活躍していたため、高校への通学が難しくなり、通信制である向陽台高校に転入しています。
堂安選手は高校2年生の時にガンバ大阪の2種登録選手になっています。
2種登録選手とは?
18歳以下の選手で構成されるチーム(U-18)に所属しながら、Jリーグの公式戦の出場を認められた選手のこと。



つまり実力のあるユース選手がJリーグに出るためには、2種登録選手になることが必要なんだね!
2015年、堂安選手が16歳の時、トップチームの沖縄キャンプでケガ人が続出したため、ユースに上がったばかりの堂安選手に声がかかりました。
そこで堂安選手はジュニアユース時代で磨いたドリブルなどの素晴らしいプレーを見せ、実力を評価されます。
そして16歳11カ月18日で、クラブ史上最年少でのJリーグ出場という記録を樹立しました。
堂安律のサッカー経歴と移籍歴・エピソードをまとめ!


引用:Instagram
堂安選手のサッカー経歴は、小学生時代の浦風FCの所属が始まりです。
その後西宮SSやガンバ大阪のジュニアユース時代を経て、2015年(高校2年生)でJリーグ出場を果たします。
2017年(18歳)からは海外に移籍し、現在も海外を拠点に活躍しています。
まとめると以下のような形です。
【少年・ユース時代の所属チーム】
●小学生時代は浦風FC兼、ヴィッセル神戸のサッカースクールへ。
●10歳のころに、西宮SSに所属を変更
●中学校へ進学する際にガンバ大阪ジュニアユースへ所属
・2012年(中学2年生)U-15の全国大会で日本サッカー史上初の3冠を達成
【プロ時代の移籍歴と日本代表歴】
●2015年(高校2年生)2種登録でガンバ大阪プロ入り(クラブ史上最年少)
・2017年(18歳)FCフローニンゲン(オランダ)に期限付きでの移籍
●2018年4月 FCフローニンゲンに完全移籍
・キリンチャレンジカップで日本A代表初選出
●2019年夏 名門PSV(オランダ)に移籍
・2019年アジア大会日本代表選出
・2020-2021年ビーレフェルト(ドイツ)に期限付き移籍
・2021年東京オリンピック日本代表選出
・2021年9月PSVに復帰
●2022年7月ブンデスリーガのフライブルクに完全移籍
・2022年11月カタールワールドカップ日本代表へ選出
この華々しい経歴をエピソードと共に以下に詳しくまとめたので、堂安選手のすごさを実感してくださいね。
小学生時代は浦風FCやヴィッセル神戸のサッカースクールへ
堂安選手は小学校入学と同時に浦風FCの正式なメンバーになります。


引用:浦風FC
浦風FCはあまり素走りはせず、ゲーム中心の練習を行っています。
堂安選手はゲームの中でドリブルとパスを上手く使い分けて、技術を磨いていきました。



高学年に混ざっても物怖じせず、堂々とプレーしていたそうですよ。
この独自の練習環境によって、堂安選手は才能をのばしていきました。
また浦風FCだけでなく、ヴィッセル神戸のサッカースクールにも通っていました。


ヴィッセル神戸はサッカースクール界の名門校と言われています。
アカデミーもあり、プロサッカー選手の育成にも力を入れています。



堂安選手は浦風FCとヴィッセル神戸の両方に通い、サッカー漬けの日々を送っていったんですね。
小学4年生のとき、より高いレベルを目指してセレッソ大阪アカデミーのテストを受けます。
しかし残念ながら落ちてしまい、サッカーで初めての挫折を味わうことになります。
このとき堂安選手はすごく悔しかったようで
「「いつか絶対に見返してやろう」と思ったし、「中学に上がるタイミングで、セレッソのジュニアユースからオファーをもらったら、1秒で断ってやる」
引用:Sports Graphic Number Web
と決めています。
セレッソ不合格という経験は、さらに堂安選手の負けん気を燃え上がらせたのでしょう。
セレッソに落ちた後は小学4年生で強豪チームの西宮SS(サッカースクール)に入り、無我夢中で練習を重ねるようになります。


引用:facebook
そんな中、堂安選手が西宮SSに。初めての参加は大会当日でした。
その大会で堂安選手はゴールを決めまくり、得点王となる驚きのプレーを見せます。
このとき指導に当たっていた早野コーチは堂安選手のことを「まさに救世主だった。」と語っています。


引用:毎日新聞
「いやはや驚きましたね。他の子たちとはフットワークやドリブルのテクニックがまるで違いました。ボールを持てば、あっという間に3人、4人とかわしていってゴールを奪ってしまう。初参加のその大会でいきなりMVPと得点王になったんです。これは凄い子が来たぞと」
引用:サッカーダイジェスト
早野コーチは、堂安選手に何度も「一番になれ」と声をかけ続けたといいます。
また早野コーチは試合会場で他チームの選手を「あいつ、うまいよな」と褒め、堂安選手の向上心を刺激していきました。



負けず嫌いの堂安選手の性格をよく理解していたからこそ、この言葉をかけ続けたのでしょう。
堂安選手も、早野コーチのことをいちばん最初に影響を受けた存在だと語っています。
これまで多くの指導者との出会いがあったけど、いちばん最初に影響を受けたのは、やっぱり西宮SSの早野陽コーチだ。「俺がマラドーナになりたい」とアホみたいな夢を語っても、「律ならなれるよ。そのためにどうすればいいんやろ?」と、子供の戯言だと思わず、しっかり向き合ってくれた。
引用:Sports Graphic Number Web
堂安選手が西宮SSに加入した頃、ヴィッセル神戸のスクールにいた西田一翔は堂安選手から誘いを受け、西宮SSに加入を決めています。


引用:instagram
堂安選手は西田一翔のことを「天才」と呼び、「こいつには敵わない」と最初に思った選手と話しています。
堂安選手と西田選手は共に息の合ったプレーを見せ、チームの二枚看板として活躍しました。


引用:ゲキサカ
残念ながら小学6年生での全日本少年サッカー大会は、県予選で敗れてしまいましたが、その頃には関西ナンバー1と言われ一目置かれる存在となっていました。
中学時代は4チームからオファーがくる選手に!ガンバ大阪ジュニアユースに所属を決める
小学5年生のフジパンカップで計8ゴールを決める快挙を成し遂げた堂安選手の実力は、かなり有名となっていました。
中学校入学時にはなんとガンバ大阪、セレッソ大阪、ヴィッセル神戸、名古屋グランパスエイトの4チームからオファーを受けます。



どれも超有名なクラブばかり!
堂安選手はとても注目されていたんですね。
その中でもガンバ大阪と名古屋グランパスで迷っていた堂安選手。
ガンバ大阪の見学に行った翌日に「ガンバのユニフォームを着ている夢を見た」と言ってガンバ大阪への入団を決めたそうですよ。
しかし堂安選手自身はそんなことを言った記憶はなく、あとで母親から聞いたとのこと。



覚えていないことにびっくりだけど、直感的にガンバ大阪があっていると感じたのかもしれません。
数々のオファーがくるほどの実力があった堂安選手ですが、当時ガンバ大阪ジュニアユースを率いていた鴨川幸司氏にとっては、実はそれほど注目していなかった選手でした。


引用:日刊ゲンダイ
「以前から同世代ではトップ・オブ・ザ・トップのグループに入る選手だと聞いていました。第一印象は基本技術がしっかりしていて、ドリブルに長けた選手だということ。ただ、この先、スピードが伸びなければドリブルが巧いだけの選手で終わるというか、高いレベルでは通用しなくなるかもな、と思っていました」
引用:livedoor NEWS
そのため鴨川氏は堂安選手に対し、あえて厳しい言葉をかけていました。
「お前は天才とちゃうぞ、満足すんな」
堂安選手はドリブルこそ長けていましたが、指導者からみると秀でた技術やスピードはなかったのです。
鴨川氏はハードワークを積み重ね、地道に努力することが大切だと伝えつづけました。
厳しい評価にも関わらず持ち前の負けん気とメンタルの強さで努力を重ね、中学1年生の秋には、中3が中心のトップチームに上がるようになりました。
順調に実力を積み重ねていた堂安選手ですが、中学1年生の冬に、高円宮杯全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会で、人生初の骨折をしてしまいます。



手応えを感じ始めた大事な時期だっただけに、病院で号泣したといいます。
一時は落ち込んだ堂安選手でしたが、中学2年生になる直前の春休みのスペイン遠征では完全に輝きを取り戻します。
それから堂安選手は飛躍的に躍進し、中学2年生のときにはU−15の全国大会で日本サッカー史上初の3冠を達成しました。
その後中学3年生になる直前の2度目のスペイン遠征でも活躍を見せ、ロシアのビッグクラブが揃う現地の大会でMVPを獲得しています。



入団当初はまずまずの評価だったけれど、最終的にここまでの成績を残せたのは、持ち前の芯の強さがあったからと言えますね。
2015年高校2年生からガンバ大阪ユース時代
堂安選手は、2015年高校2年生の時にガンバ大阪の2種登録選手になっています。
そしてユースの先輩であるFW宇佐美貴史の記録を抜き、16歳11カ月18日でガンバ大阪クラブ史上最年少でJリーグ出場を果たします。
同年、2016年シーズン新加入選手としてガンバ大阪と仮契約を交わしています。
Jリーグ入団後の活躍
・2016年のガンバ大阪U-23のグルージャ盛岡戦で公式戦初得点を記録
・大分トリニータ戦では1試合2得点を決める
・U-20ワールドカップでは、4試合3得点という活躍を見せる
・U-20ワールドカップの年に、アジア年間最優秀ユース選手賞を受賞
Jリーグに入団後も期待を裏切ることなく、目覚ましい活躍や記録を残しています。
2017年18歳から海外で活躍を始める
堂安選手は、2017年から海外に拠点を広げ活躍するようになります。
2017年(18歳)FCフローニンゲン(オランダ)に期限付き移籍を発表
堂安選手の初の海外移籍は、FCフローニンゲン(オランダ)でした。
堂安選手がフローニンゲンへの移籍を決めた理由は、ハンス・ナイラント社長と監督がわざわざ日本に来て熱心に交渉してくれたからでした。



海外から社長と監督がわざわざ足を運ぶほど、堂安選手は魅力のある選手だったのですね。
フローニンゲンでは初年度のシーズンで9得点4アシストの成績を残し、フローニンゲンの10代選手で歴代3位の得点記録を残しました。
これらの成績から2018年4月23日、フローニンゲンが買い取りオプションを行使し完全移籍となりました。
2019年夏より、名門PSV(オランダ)に移籍


引用:Instagram
2019年夏にはリーグ優勝21回を誇る、名門PSV(オランダ)にステップアップの移籍を果たします。
堂安選手は、PSV史上初の日本人選手でした。
移籍後、2019年9月15日のデビュー戦でも、堂安選手はひるむことなく攻め込み実力をアピールしました。
堂安選手はこのPSV移籍での手ごたえを「強いです。チームが強いです。嬉しいですね」と語っています。
「歳が近い選手ばっかやし。これぞ自分が求めてた環境なので、逃げてるようじゃ口だけの選手になっちゃうんでね。ここで戦っていきながら強い男になりたいと思います。日本を代表してこっちでチームのポジション争いに勝ちたい。こっちで俺が活躍できれば、日本代表ってすげーなって思ってくれると思うので」
引用:スポニチアネックス
名門PSVで活動したことは、堂安選手の自信にもつながったようですね。
2020-2021年ビーレフェルト(ドイツ)に期限付き移籍
2020年から1年間、ビーレフェルト(ドイツ1部に昇格)は、PSV所属中であった堂安選手と1年間のレンタル移籍の契約を結びます。
この期限付き移籍は、PSVでの2019年シーズンの成績が、19試合2得点と振るわなかったことが影響しているようです。
またそれだけでなく、堂安選手にとってトップリーグの一つで経験を積むことは、来夏の東京五輪でより多くの出場機会を得るにつながるという狙いもありました。
ビーレフェルトではリーグ戦全34試合に出場し、チームトップタイの5得点を挙げました。
2021年9月PSVに復帰
2021年6月にビーレフェルトを退団したあと、PSVに復帰となりました。
KNVPカップ決勝では、途中出場し素晴らしいプレーを見せ、日本人選手初の優勝を果たしました。
2022年7月ブンデスリーガのフライブルク(ドイツ)に完全移籍
PSVからフライブルクへの移籍金は、800万ユーロ(約11億2000万円)で合意に至ったと伝えられています。
堂安選手にとって、フライブルク移籍の決め手となったのは、クリスティアン・シュトライヒ監督との会談でした。
プレーの考え方が、PSVの監督であるロジャー・シュミットが考えるプレーと似ていたと話しています。



自分の強みを発揮できると確信があったようですね。
堂安選手は現在もフライブルクに所属し活躍しています。
日本代表に初召集され注目選手に
2018年20歳の頃 キリンチャレンジカップ


引用:Instagram
2018年9月、堂安選手が20歳の時、キリンチャレンジカップで日本A代表初選出となりました。
このとき初選出だったメンバーは
シュミット・ダニエル(仙台)
佐々木 翔(広島)
冨安 健洋(シントトロイデンVV)
伊藤 達哉(ハンブルガーSV)
堂安 律(FCフローニンゲン )
この5人でした。
堂安律はFCフローニンゲンに移籍して一年目の頃。
本人は「9月の代表で選ばれたらうれしい。そのためにフローニンゲンで頑張りたい」と話していたようです。



日本代表初選出の夢をずっと持ちながら、FCフローニンゲンで頑張っていたんですね。
夢がかない、9月11日のコスタリカ戦ではA代表初出場を果たします。
また10月16日のウルグアイ戦ではA代表初ゴールを決め、実力を見せつけました。
2019年21歳の頃 アジアカップ
2019年のアジアカップでは、堂安選手は6試合に出場し2得点をあげました。
しかし惜しくもアジア制覇という目標には届かず、日本は準優勝となりました。
堂安選手はこの大会を振り返り、悔しさをあらわにしています。
「優勝していないので、得られたものはないと思っています。優勝するために来たので、経験とか、成長とかのために来たわけではないですし。だからこそ、自分の責任で負けたと感じています」
引用:サッカーキング



「自分の責任で負けた」という言葉に日本代表としての強いプライドを感じますね。
アジア制覇とはなりませんでしたが、『FOXスポーツ』アジア版では、アジアカップ2019準々決勝でベストパフォーマンスを見せた5選手として堂安律が選ばれ、堂安選手の活躍は高く評価されました。
2021年23歳の頃 東京オリンピック
2021年6月22日、東京オリンピックU-24日本代表に選出されました。
背番号は10番です。
このとき堂安選手はオリンピック直前の強化試合でスペインと対戦し、4試合連続得点をマークします。
「連続でゴールを奪えているのはコンディションが良いから」と自身を分析し、オリンピックへの自信をにじませていました。
しかし残念ながら、東京オリンピックは4位という結果に終わります。
3位決定戦でメキシコに敗れたあとのインタビューで、堂安選手は
「大会を通じて責任を感じている。」
「持てる力全てを出した。完敗だった。」
と語っています。
日本は勝利のために奮闘しましたが、メキシコの圧倒的な実力に全く太刀打ちできなかったようです。
2022年11月24歳の頃 カタールワールドカップ
2022年11月、堂安選手は2022カタールワールドカップ日本代表に選出されました。
11月23日、グループリーグ初戦の強豪ドイツとの対戦では、後半から途中出場し同点ゴールを決めました。
そして優勝4度を誇る強豪ドイツに2-1で逆転勝ちし、日本は大金星をあげます。
その後コスタリカとの第2戦は落としてしまいます。
しかし次回スペインに勝てば、決勝トーナメント進出に自力で進むことができる状況でした。
12月1日、グループリーグ3戦目のスペインとの対戦では、堂安選手は再び後半から途中出場し大会2度目の同点ゴールを決めています。
その直後に田中碧選手が勝ち越しゴールを決め、チームは逆転勝利を収めました。
グループEを1位で突破し、2大会連続で通算4度目となる16強進出を決めました。
決勝トーナメントでは1回戦でクロアチアと対戦し、PK戦の末敗れベスト8入りは逃してしまいましたが、堂安選手はベスト16進出に大きく貢献しました。
堂安律の名言!ワールドカップで話題に


引用:Jリーグ
堂安選手は2022年ワールドカップで数々の名言を残しました。
「俺しかいない。俺が決めるんだ」
引用:Sports Graphic Number Web
「壁に当たった時、唯一の救いは勘違いすること。ワールドカップで点を取ると思っていたし、絶不調で先が見えない中でも勝手にプレーをイメージしていた。そのおかげでトレーニングをつづけることができた。この性格に感謝です」
引用:Sports Graphic Number Web
「試合前、まだ観客が入っていないグラウンドに出るんです。観客がいっぱいになっているのを想像して、ゴール前で自分のゴールシーンをイメージする。そうすると、自然とドキドキしてきて緊張感がわいてくる。その緊張感を大事にしながらロッカールームに戻り、そのまま試合にのぞみます。人にもよると思いますが、僕はあえて自分を緊張させることで、調子が上がってくるんです」
引用:GQ Japan
もちろんエースになりたいけれど、リーダーになりたいと思っています。自分がキャプテンでいいと思うくらいの覚悟でいます。できる素質は持っていると自分では思っているんで、チームに良い影響を与える選手になりたいですね。
引用:サッカーキング
「全てがゼロになるわけじゃないが、強豪国に勝っても歴史を変えることが出来なければ正直意味ない」
引用:Olympics



堂安選手の名言には、今までの経験から培われた自信や芯の強さがよく表れていますね。
堂安選手は幼いころからメンタルの強さを評価されてきました。
このメンタルの強さが、ここまでの実績につながっているのでしょう。
堂安律のサッカー選手としてのすごさは? まとめ
・3歳の頃に2人の兄の影響を受けて、浦風FCの見学に行きサッカーを始める
・10歳のとき強豪チーム西宮SSに入会
・小学生のときから関西ナンバー1といわれた
・中学生の時に4チームからオファーを受ける
・高校2年生でガンバ大阪の2種登録選手になり、クラブ史上最年少でのJリーグ出場を果たす
・2018年9月、堂安選手が20歳の時、キリンチャレンジカップで日本A代表初選出
・2017年(18歳)でFCフローニンゲン(オランダ)に期限付き移籍を発表
・2019年夏より、名門PSV(オランダ)に移籍
・2020-2021年ビーレフェルト(ドイツ)に期限付き移籍
・2021年9月PSVに復帰
・2022年7月ブンデスリーガのフライブルクに完全移籍
幼いころに兄の影響を受けサッカーを始めたことがきっかけで、メキメキと実力を伸ばしていきます。
持ち前のメンタルの強さと、地道な努力を重ねた結果、現在は日本で知らない人はいないほど有名なサッカー選手となりました。
現在はブンデスリーガ・SCフライブルクに移籍し、海外を拠点に活動しています。
現状に満足せず常に向上心のある堂安選手ですので、今後もますます活躍が期待できるでしょう。